藤原京左京七条一坊跡(奈良県橿原市上飛騨町)から2001年に出土した飛鳥時代末期の木簡1点を奈良文化財研究所(奈文研)が再調査した結果、当時の役人が使っていた「九九早見表」の一部とみられることが分かり、同研究所紀要で4日公表した。担当した桑田訓也・主任研究員(古代史)によると、最古級の九九早見表の確認例。律令国家で九九が広く用いられたことを示す貴重な史料という。 木簡は長さ16・2センチ、幅1・2センチ。縦書きで
mainichi.jp/articles/20240904/k00/00m/040/089000c
“三つの九九の規則性から木簡はメモでなく古代中国で使われた九九早見表の右上部分とみられる""元の表は長さ32.6センチの木の板に「九々八十一」から「一々如一」まで主要な九九37個を列記”
木簡の裏に好きなバンドの名前がびっしり書いてあるはずだからチェックしてほしい
漢字で見ると難しいなあ。2桁数字なのに漢字だと二十一って3桁になるの混乱しないのかな。そろばんでは二桁だから大丈夫だったんかな
“藤原京左京七条一坊跡(奈良県橿原市上飛騨町)”“九九早見表は事務官が衛士の勤務管理のための計算に使ったもので、役所の壁に掛けるなどして共用されたとみられている”“九九は春秋時代の中国で成立”
再解析で見つかったというのがいいですね。デジタルで残したから捨てようなんてしちゃダメ
漢字で見ると難しいといっている人はローマ数字を思い浮かべて如何に0の発明が偉大だった思いを馳せてカレーを食べてほしい
"藤原京では一部の技術者だけでなく、一般の役人まで九九を日常的に使っていたことを示す史料。"
“九九早見表は事務官が衛士の勤務管理のための計算に使ったもので、役所の壁に掛けるなどして共用されたとみられている。”お役所ぁ!
“「藤原京では一部の技術者だけでなく、一般の役人まで九九を日常的に使っていたことを示す史料。現代と同じく当時の役所でも勤務管理は一苦労で、事務官は早見表を傍らに計算に苦闘していたのだろう」”
この頃には算木か算盤があったんだろうな。木簡や紙に書いて計算してたとは思えないので。
勤怠管理で掛け算って…単価があっての支給額計算なんだろか?
再解析で見つかったというのがいいですね。デジタルで残したから捨てようなんてしちゃダメ
やっぱりトイレとか風呂場の壁に貼って覚えたのかな
頑張って探せば石板を見つかりそう
読みは漢式で「くくはちじゅういち」だったのか、大和詞で「ここここやそひと」だったのか気になる
順番がバラバラに見えたがそうでもなかったのか。
「算数」ってすごいね。でも嫌いだけど。
“藤原京左京七条一坊跡(奈良県橿原市上飛騨町)”“九九早見表は事務官が衛士の勤務管理のための計算に使ったもので、役所の壁に掛けるなどして共用されたとみられている”“九九は春秋時代の中国で成立”
“主要な九九37個”
そんな頃すでに九九が使ってたんか!
当時学校なんてないから役人になってから九九を覚えたんだろうか
「六八卌(しじゅう)八」「四九卅(さんじゅう)六」「九々八十一」←当たり前だけど漢数字で覚えるのは面倒そう。
木簡の形してなかったら文字が書いてあるとは思えない / 飛鳥時代にはかけ算の順序問題は解決していた!
飛鳥時代の小学生も大変なんだな、、、
中国にはさらに前からあった模様。当時最新のテクノロジー。
たいへんだなあ。
古代の役人も掛け算の順序であれこれ言ってたんだろうか…
漢字で見ると難しいなあ。2桁数字なのに漢字だと二十一って3桁になるの混乱しないのかな。そろばんでは二桁だから大丈夫だったんかな
アラビア数字は偉大と改めて思うなど
お風呂に置いて覚えたりしてたんだろうか?
木簡も使い放題じゃないだろうから節約表記なのかな。紙はこの頃にはあったのかな
古代の人に親近感湧くなあ〜。労務管理で苦労とか、「こいつ働かへんくせに、時間だけは長めにつける」とか言ってたのかな。
木簡の裏に好きなバンドの名前がびっしり書いてあるはずだからチェックしてほしい
“卅”とか“卌”はどう出すの?
当時のカンペは木簡だったのだな。九九くらい暗記せーやとも思うが、当時はこれが最先端の計算法みたいな扱いだったのかな
これなぜ37個なんだろうと考えてたんだが、木簡を右上の九九八十一から左に読んでいくとちゃんと9の段から(×1は省略して)順番に並んでいることに気づいてちょっと感動したわ